三陸うめちゃんコラム
三陸うめちゃんコラムvol.4
2021年2月21日
釜石・宝来館
震災から10年というタイミングが間近に迫り、デイリーストックアクション(以下、DSA)のアンバサーでもある釜石の浜べの料理宿、宝来館(ほうらいかん)の岩﨑昭子女将にお話を伺いました。釜石のラグビーワールドカップの誘致と震災復興の旗振り役として、テレビや雑誌に度々登場し、日本全国での講演依頼が絶えない人気女将です。あの日、ご自身も津波に飲まれながら九死に一生を得る体験をした女将の今について伺いました。
(宝来館の役目)
まもなく震災から10年というタイミングで、女将さんのところにはいつも以上にたくさんの取材依頼が入っていると思います。この10年で宝来館を訪ねてこられる方々の目的に変化はありますか?
―宝来館には、(女将に)10年前のことを聞きたいと仰ってくださるお客様にご宿泊いただくことが多いと思います。震災10年を目前にして「やっとくることができました」「今更行ってもいいのだろうかと思いつつ初めて被災地を訪れました」と仰ってくださるお客様もいらっしゃいます。一方で、節目節目に故郷に帰ってくるようにお泊りいただけるお客様や、会社の支援活動で釜石に来てからずっと応援してくださるお客様は、近況報告や情報交換と言って定期的に足を運んでくださいます。
今こうして振り返る機会をいただいて思うことは、宝来館の役割は、ここにあるということ、動かないでいることではないかと。それが宿の役割で、ここにいながら実はお客様が来てくださることによって、私たちも旅をさせてもらっているのではないかと。年月は経っても、私たちもお客様も根っこの部分は変わらない。そう思います。
(分け合うしかなかったから)
宝来館さんとは一昨年の春に、DSAの取り組みでご一緒させていただきましたが、3年前、DSAについて女将さんと打合せをさせていただいた中で、「この取り組みをひとりひとりができればいざという時にみんなに分けることができる」とお話しくださったのがとても印象に残っていると委員長の池上が話していました。
―その言葉はみんながいないと生きられないという状況だったから出た言葉かもしれません。スーパーがあるけれどいかれないという状況ではなく、本当にすべて壊された状況の中で、分け合うしかなかったから。その後、私たちは高台移転をし、宿は宿で避難道づくりに取り組んできました。備えて日常を取り戻す。できていないこともありますが。
こんなことを聞いていいかわかりませんが、宿には宿の備えがあって、ご自宅にはご自宅で別の備えがあると思います。ご自宅の備えについて、この10年で何か変わったことはありますか?
―あまり変わらないです。まず高台に移転したという安心もあるのかもしれませんが、「あの経験をした」ということが「(あれを経験したのだから」何とかなる」という意識になってしまっているかもしれません。(※地域の特長として支え合うという意識が土台にあるため「何とかなる=何もしていない」ということではない)
ショッピングモールに震災10年に寄せるメッセージのようなコーナーがあったのですが、そこに「わたし10さいなのでわかりません」と書かれたものがいくつかありました。私が昨年3月まで暮らしていた大槌町のおしゃっち(大槌町文化交流センター)がオープンした時に、当時の映像が流れる展示室に入った家族がいて、その家族の小さな子どもは映像に近づいていくのですが、その子の両親は立ち止まって背中を向けてしまいました。あの経験をしたからこそ家族で震災について触れないでいるということもあるだろうと。
―家族で話をするにはしていると思いますが、どこまでいっても気持ちが沈んでしまうんですよね。深く落ちていってしまう。自分だけなら、あの経験をしたから何とかなると思えても、子や孫もとなると…。(先日の地震に触れて)今一度、見直す機会にしないと。
これまで全国で講演をされてきて、防災に関する様々な取り組みをされているところのゲストに呼ばれてきたと思いますが、印象に残っている地域を教えてください。
―南海トラフのことに関連して防災に取り組んでいらした宇和島(愛媛県)の方々ですね。防災キャンプという素晴らしい取り組みをされていました。釜石とずっと関りがある中では玉島地域(岡山県)の方々。被災者が自分で立ち上がるには、寄り添って励ましてくれる方々の存在が必要ですとお話しした時でした。その他で特に印象に残っているのは(釜石と防災協定を結んでいる)摂津市(大阪府)ですね。お会いした方々が全員女性で、しっかり意見を出し合っていて素晴らしかったです。
大阪と言えば、警察や消防がいち早く駆けつけてくださいましたよね。
―今にして思えば、兵庫の方々も大阪の方々も、阪神大震災を経験して、(支援を受けた)自分たちが今度は(支援をする番だ)という意識を育ててきたのだろうと。私たちは10年、阪神大震災からは25年ですから単純に比較はできないですが、私たちが同じようにできるかと言われたらどうでしょうか。先日のマグニチュード7の地震であの時を思い出したけれど、あの時は9だったし今回は津波が来ないとすぐにわかったから大丈夫だと思ってしまいました。
(終わりに)
「災害=避難」ばかりではなく、在宅避難、自宅待機という状況を想定してのDSAです。せめて自分の家族はいつも食べ慣れているものを口にできたらストレスの一助を軽減できるかもしれないと始まったDSAですが、小さな災いとして想定した日常に起こるお母さんのプチトラブルというのは、決して些細なことではなくクタクタになるほどの大きな出来事ではないかと。女将さんはそうした経験が後々宝物になるとお話しくださいました。
いつ起きるかわからないから押し入れの奥においやられてしまう備蓄ではなく、日常的に使いまわしていくというローリングストックという考え方は、DSAを始めた3年前と比べても格段に認知されたように感じます。防災食という言葉についてもしかりです。
長く続くコロナ禍でカップ麺需要も高くなっていると聞きます。良かれと思って買ってきたものがうちの子の好みではなかったという経験。パクパク食べてくれたからたくさん買ってきたのに次からはまったく食べてくれなかったという経験。そのことでついイライラしてしまいますよね。それこそが防災訓練で、違ったということを確認できたという意味では、防災レベルが1上がったと言ってポジティブに捉えてもいいのではないでしょうか。
たまたま偶然居合わせた者同士が、もしもの時のために誰かと分け合える何かをもっていたらと考えるだけで、弱っていた心を強くして、その時を乗り越えられるかもしれません。
今から避難するから大切なものだけをリュックに入れてと言えば、子どもたちは確実におもちゃだけをリュックに詰め込むでしょう。それを許せる大人でいられるでしょうか。
自分たちに余力があることが、誰かの安心にもつながるということを、女将さんと話していてつくづく感じました。
デイリーストックアクション実行委員会 副委員長 梅沢義明
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